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足長坊主 [更新日時] 2017-08-15 14:09:39
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家づくりに営業マンなんて必要ないのではないじゃろうか?知識不足で嘘つきで、そのくせ給料だけは高い。営業マンなんか無くして、設計と工務と事務で事足りはしないじゃろうかのぅ?皆さんはいかがお考えじゃ?

[スレ作成日時]2017-05-10 18:08:57

 
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営業マンなんかいらない

78: 足長坊主 
[2017-05-15 00:53:45]
>>77
君は「スレを盗作するなんて」との事じゃが、人生も芸術も音楽や映画や舞台も、先人たちの知恵から学んだからこそ文化は発展していくのじゃ。

例えば、芥川龍之介の業績を考える。ちなみに、わしは芥川龍之介にあこがれ、九州大学の法学部への推薦入学を蹴って、英文科を卒業した。と、自慢はさておき、芥川の作品は盗作とどう違うのか。

芥川は多くの短編小説を著している。傑作と評される作品も数多い。古風ゆかしき作風と独特の筆致で独自の世界観を描いた。

芥川作品の多くが古典を題材とした作品であることはよく知られている。『羅生門』『鼻』『薮の中』などは『今昔物語』、『地獄変』は『宇治拾遺物語』にその原型が見られる。

一般に芸術において古人の作品の換骨奪胎は盗作として非難される。最近では安倍なつみが自著のなかで他人の作品に酷似した詩を掲載した盗作疑惑で謝罪している。その後しばらくの芸能活動自粛、紅白歌合戦出場辞退などの措置を考えると、かなり重いペナルティーだろう。

では、芥川龍之介と安倍なつみではどこが違うのか。

まずひとつ考えられるのは、「著作権の有無によって、借用に関わるモラルが違う」ということだろう。誰が最初に作ったのかハッキリしている場合には、その人の知的財産権を侵害することになり、よろしくない。

音楽の世界でもクラシックの焼き直しはよく見られる。わしが学生の頃、TM Networkというユニットの「Human System」というアルバムが爆発的に売れた。アルバムのタイトルにもなっている曲"Human System"の前奏に、モーツァルトの「トルコ行進曲」のフレーズがそのまま使われている部分がある。「こんなことしていいのかなぁ」と思ったものだ。

しかし芸術の本義に照らして考えるなら、著作権云々や法律云々は瑣末な問題だ。芸術を志すものは自らの力で新たな世界をつくることを第一義としてほしい。罰せられないから良いという問題ではなかろう。

そう考えると、芥川の業績がますますもって分からなくなる。安倍なつみが盗作と叩かれ、芥川の作品が傑作と評される間の、毀誉褒貶の差は凄まじい。一体、芥川の作品は何がどう素晴らしいのか。

そもそもわしは芥川の作品しか読んだことがなく、オリジナルのほうの古典を読んだことがなかった。そっちを読んでみないことには、芥川がなにをどう変えたのかが分からない。

たとえば、傑作のひとつとして名高い『羅生門』を見てみる。
この物語の原型は『今昔物語』29巻第18、「羅城門の上層(うわこし)に上りて死人を見たる盗人のこと」にある。

羅城門は平安京の南端、朱雀大路の起点となる門で、都と外界を分けている門。ある男が「泥坊にでもなるか」と思い、京の都にやってきた。京に着くとまだ昼間なので、とりあえず羅城門の二階に上った。そうすると奥の方でなにやら灯がともっている。「何だろう」と思って見ると、若い女の死体があり、白髪の老婆が死人の髪をむしり取っている。問いつめると、老婆は「この女性は私の主でありましたが、亡くなって弔う者もおりません。そこでここへお置きしたのです。髪が大変長くていらっしゃるので、鬘にしようと思って抜き取っておりました」と言う。男は死人と老婆の着物を剥ぎ取り、抜き取られた髪も奪って逃げ去った。当時、死人の葬式が出せないときには死体をこの門の二階に運んで置いて行ったため、骸骨がたくさん転がっていた。この話はその盗人が他人に話したのが今に伝わっているそうだ

読んでみると、たしかに芥川の『羅生門』とは趣が違う。なんというか、話が雑だ。人物も状況も描けていない。登場人物の行動に必然性がない。

たとえば、なんで男は羅城門の2階へ上がる必要があったのか。身を隠すのであればわざわざ門の二階に上がる必要があるか。また老婆はどういうキャラとして描かれているのか。悪人なのか善人なのか。死人となった元の主人から髪を抜くという行為が普通にできるものなのか。

要するに『今昔物語』ではディティールがうまく描けていない。「こういう事件がありましたよ」と記述するだけで、リアリティが感じられない。その弱点が、芥川の作品では見事に払拭されている。

まず、男は最初から盗人になろうと思って羅城門に佇んでいたのではない。このままでは生活に困るし、かといって泥坊になる度胸はないし、という半端な気持ちだった。

状況設定としては雨が降っており、男は羅城門で雨宿りをしていたことになっている。雨の中で動くと濡れるので、とりあえず雨を避けて一眠りしようと思い、門の二階へ上がる。非常に辻褄が合っており、行動に必然性がある。

老婆の設定にも手が加わっている。死んだ女性は老婆の元主人ではなく、顔見知りのただの女で、生前に蛇の肉を刻んで魚の肉と偽って売っていたような女だった。その女はそれをやらなければ飢え死にしていただろうから仕方がない。老婆もまた女の髪を抜いて売らねば生きていけない。だから「死んだ女も私の行為を許してくれるだろう」という理屈だ。

『今昔物語』では「自分のしていることが露見してあわてふためくだけの婆さん」だったのが、『羅生門』では「乱世をしたたかに生き抜く狡賢い老婆」に生まれ変わっている。老婆の一言一句から、老婆のキャラクターが垣間見えるような書き方になっている。その分、その老婆に対峙する男の気持ちも理解しやすくなっている。

その老婆に対して男が言う。


「では、己が引剥をしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をする体なのだ」


この男の一言が、いわば作品全体の芯となるモチーフだろう。未熟な説話と現代の小説を決定的に分ける役割を果たしている。

モラルや道徳というのは、世につれ時代につれ変化する。古典を読むときには、過去の道徳観や常識を理解しなければ正しく鑑賞できない。現在の貞操観念や結婚制度に基づいて『源氏物語』など読もうものなら、外道も甚だしいただの乱交物語になってしまう。

おそらく平安時代の下層階級においては、死人から髪の毛や衣類を剥ぎ取ることくらい日常茶飯事だっただろう。餓死をするくらいならと泥坊に身を堕とす人も、現在の常識とはかけ離れたくらい多かったに違いない。

しかし、芥川の『羅生門』では、髪の毛を抜いたり追い剥ぎをしたりという行為が、きわめて現在の価値観に近い視点で描かれている。物語の最後で男はれっきとした泥坊行為を働くが、これは現代的な価値観だから結語となり得る。平安時代の話だったらさしたる衝撃もなかっただろう。事実、オリジナルの『今昔物語』では男の追い剥ぎが何のアクセントもなく普通に描かれている。

つまり、芥川の作品では、登場人物は我々と同じ価値観をもつ現代人なのだ。物語の場面設定と時代だけ古典に題材を採り、そこに登場する人物だけを現代人に置き換えて事件を描く。これが芥川が発見した手法だった。

モラルや道徳は確かに時代によって変わるだろうが、時代の変遷に関わらず、自分を律するモラルと他人に要求するモラルに差がなければ、それは立派な人格として認めて良いと思う。平安時代の泥坊だって、自分が泥坊される側になっても「まぁ、しょうがない」と思えるのであれば、それはそれでひとつの価値観だろう。悪いのは「自分に甘く、他人に厳しい」という態度であり、その尺度はいつの時代でも普遍的に適用されるのではあるまいか。

死んだ女は「生きるため」に蛇の肉を売っていた。だから他人が死後の自分に「生きるため」に狼藉を働いても赦すはずだ。老婆の主張はそのロジックに基づいている。

老婆はそう主張することによって、自分が死んだ女にしたようなことを自分にされても、文句が言えない立場に置かれることになる。誰かが「生きるため」に老婆を害するようなことがあっても、老婆はそれを認めなくてはならない。

男の最後の言葉は、そのスタンダードが老婆にもまた当てはまるはずだ、ということを明らかにしている。死んだ女は自分がしたことをされても仕方が無い。なら、老婆もまた自分がしたことをされても仕方なかろう。

平安時代に生きた下人が、このような論理的帰結によって追い剥ぎを働いたとは考えにくい。法による秩序の観念が現在ほど発達していなかった時代にあっては、老婆からの追い剥ぎくらいどうってことなかっただろう。男の言葉は、現在常識となっているモラルと法の精神のなかでこそ意味がある。「自分と他人を律するモラルは同一であるべきだ」という普遍的な価値観が、現代でたまたま定まっている法やモラルを飛び越えている。この観点こそ、読者の我々が生きる現代と、舞台になっている平安時代を結んでいる。

時が経てば風化してしまうような物語に価値はない。文学作品というものは須く普遍の真理を探求すべきだ。芥川はその目的に沿う手法を模索した挙句、古の物語と現代人の感覚を繋ぐことを思いついた。達見と言うべきだろう。


そこに新たな知見と価値観、普遍の真理が盛り込まれるのであれば、それは立派な作品と言って良い。実際に今昔物語を読んでから芥川作品を読むと、さながら灰から不死鳥が甦るかの如き転生の鮮やかさを感じる。説話と小説のレベルの違いがはっきり分かる。

物語の締めにも書かれている通り、『今昔物語』のほうでは、主眼は「昔は朱雀大路の門の二階にも死体がごろごろ転がってたんだってよ」という猟奇的な面に置かれている。それは題名にも表れており「死人を見たる盗人」となっている。「死人の髪を抜く老婆を見たる盗人」ではない。原作では婆さんは単なる死体の引き立て役だ。

ところが芥川はその話を、追い剥ぎを働くに至る下人の心情の変化を中心に描いた。そこでは盗人の視点の中心は、死人ではなく老婆である。話の結語も明確で、「モラルに関する普遍的な洞察」というしっかりした背骨が通っている。これはもはや原作とは全く違う話と言っても過言ではない。

安倍なつみの場合、具体的なフレーズや個々の詩句に反応し、それを取り入れたに過ぎない。いわば、他人の作品の上澄みだけを頂戴したのであり、できあがりの作品の深い部分は原作者の意図のまま手つかずだ。これでは盗作と言われても仕方がない。もし個々の詩句を引用しても、それを全く別の角度から別の感情で描き、全く違う読後感を抱かせるような物語に生まれ変わらせたら、それは安倍なつみ独自の作品となり得ただろう。

「他作品にインスパイアされ独自のアイデアを盛り込み新たな作品を作り出しました」というavexが流行らせた言明は、言い訳に過ぎないと思う。本当に他者を土台として作品を作るなら、まず自分に明確なモチーフがなくては話にならない。本歌取りはそのモチーフを形に仕上げるための切り口のひとつに過ぎない。主体がどちらの側にあるのかの違いだろう。

盗作かそうでないかは、「もともと自分の中に作りたい何かがあったのか否か」という尺度で見ると判断しやすい。原作のつくりだす世界の枠から出れずに、小細工で違いを作ろうとする手合いは盗作と断じてもよかろう。もし作品が原作とは全く違った世界を作り出すのであれば、それはひとつの完成品だと思うのじゃ。

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